three fragmented personas 映画に出会うまでに感じた、3つに乖離するペルソナ|山中瑶子
three fragmented personas 映画に出会うまでに感じた、3つに乖離するペルソナ|山中瑶子

three fragmented personas 映画に出会うまでに感じた、3つに乖離するペルソナ|山中瑶子

photo masashi ura
text aika kawada

2025.07.30

映画監督として活躍する山中瑶子さんに、その道を志した原点について尋ねると、高校生で映画に出会うまでに感じていた3つのペルソナだという。学校での自分、家庭での自分、一人でいるときの自分。それぞれの人格が大きく異なっていたことに、強い違和感を持っていた。そんな過去が、どのように映画監督という道へと繋がったのか。その根底には、絶対的な存在として立ちはだかっていた母親の存在がある。そして彼女は、自らの作品で一貫して“取り乱した女性”を描いてきた。その理由についても語ってくれた。

山中瑶子(やまなか・ようこ)

長野県出身。独学で制作した初監督作品『あみこ』が PFF アワード2017に入選。翌年、20歳で第68回ベルリン国際映画祭にて長編映画監督の最年少記録を更新。本格的長編第一作となる『ナミビアの砂漠』は第77回カンヌ国際映画祭 監督週間に出品され、女性監督として史上最年少となる国際映画批評家連盟賞を受賞。

X:@dwnwakeup

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運命的な映画との出合い

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山中さんが映画に興味を持ち、その世界に深く潜っていったのは、10代後半のこと。彼女がこれまでに観てきた膨大な作品数を思えば、やや遅いスタートにも感じる。けれど、そこには自由に映画やテレビを観ることを禁じられていた、厳しい家庭で育ったという複雑な事情があった。

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「映画を見始めた最初の頃は、友人たちと一緒に映画館へ行き、流行の作品を見ているだけでした。中学生の頃に親に内緒で中島哲也監督の『告白』(2010年)を見に行ったときに興味をそそられたのは、恥ずかしいことに映画そのものより、爆弾魔のキャラクターでした(笑)。高校2年生になると、みんな勉強や部活で忙しくなって、一人で映画館へ通うようになりました。その頃、美術の先生に「最近、映画にハマっているんです」と話したら、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の『ホーリー・マウンテン』(1973年)を貸してくれて。そこから、作家性の強い作品や映画監督という存在を意識し出して、さらに映画にのめり込んでいきました。劇場でも家でも、映画漬けの生活でしたね」

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映画を1日に何本も観る側だった彼女が、高校卒業間際には、自分の描きたいものを描く制作側を目指すように。そこには、どのような心境の変化があったのだろう。

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「幼少期は娯楽に厳しい家庭でしたが、読書だけは許されていたので、たくさんの小説を読んでいました。それから絵画教室に通い、友人に教えてもらう音楽にも夢中で。映画は、そんな大好きなことがすべてできる総合芸術だと気づいたんだと思います。一瞬漫画家にもなりたかったし、一冊だけ隠してあった拾い物の『りぼん』は連載作品の前後がわからないからこそ、あれこれとストーリーを想像して楽しんでいました。きっと、人間に付随する物語が好きだったのでしょうね。『告白』で爆弾魔に惹かれたのも、そうなった人間の背景を考えることが楽しかったから。そういった興味の出発点は、思えば自分の“人格への違和感”だったのかもしれません」

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3つの人格を使い分けた学生時代

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思春期なら誰しもが、自分の内面に戸惑う。学生時代の山中さんを悩ませたのは、学校にいるときの社会的な自分と家庭での自分、ひとりでいるときの素の自分という3つのばらばらな人格。その乖離について、小説や映画などの物語を通して理解しようとしていたという。

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「当時の自分は、キャラクターの差をすごく大げさに捉えていて、学校では見せられない恥ずかしい自分とか、変わった家庭環境は社会的に認められないだろうと思い込んでいて、隠すべきものだと思っていました。だから、家庭内の問題は共有されず、不透明で可視化されないんだと思いますが……。でもそういうことが映画や小説の中ではつまびらかにされていて、公に語られたりもする。国民性もあると思いますが、たとえばフランス映画では、ずっと大声で喧嘩をして、人間の恥ずかしい部分を丸出しにしていたり。そうした作品が、それまで自分が悩んできたことは、決して特別なものではなく、むしろ時代を超えて繰り返されてきた人間の本質なのだと教えてくれる。そこに助けられたり、映画の面白さを感じるんです」

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彼女が語る「3つの人格」とは、一体どんなタイプだったのか。学校での山中さんは、小中高と進むなかで少しずつキャラクターが変化していったが、共通していたのは、「スムーズな社会性」を重んじて、円滑に過ごそうとする姿勢だった。

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「小学校はどのクラスも学級崩壊を起こしているようなひどく荒れた環境で、1年生の時から『とんでもないところに来てしまった。ここを上手く生き抜かなくては』と常に身構えていました。“スクールカースト”という言葉こそまだなかったものの、上のほうに居続けなくてはならないという強迫観念がありました。でも、もちろんうまくコントロールすることはできず、順番にいじめられたり、いじめたり。トライアンドエラーを繰り返す中で、中学校で少しずつ社会的な人格が確立していきました。高校は倫理観が似た人が集まっていたのでいじめはなくなり、“完全に仕上がった”と思い込んで、あらゆることにうまく対応できていたように思います。たとえるなら、自分が撮った映画『あみこ』の登場人物・アオミくんのような存在。マスも少数派も、どちらともうまく付き合うことを徹底するような嫌なやつだったと思います。だからこそ映画館で映画と対峙しているときだけは完全に一人になれて、自分の存在を忘れられて居心地が良かったんでしょうね」

一方、家庭では。

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「父が仕事で不在だったのもあり、母が絶対的な存在でした。かなりの教育者で、私は自我というものを強制的に消さなければならず、どう立ち回るかを常に考えていました。終始、母の『当然、これをするよね』に対して『はい、します』と応じるしかなかった。母の望むことだけに応えなければならない。その反動で、小学校5年生くらいに大きな反抗期が訪れました。母に自分の主体性を奪われたことに対して強く反発したんです。ぶつかるたびに、抑え込んでいた感情を一つ一つ取り戻せている感覚があって、こっそり所有して育てていました。中学生になると、『家庭にはそれぞれルールがある』と理解できるようになって、『うちは一般的な家庭とはちょっと違うけど、でもきっとみんなそんなもんか』と思えるようになりました」

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そして今、大人になった山中さんは、「そもそも“一般的な家庭”というものは存在しないのかもしれないと思っている」と語る。

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“取り乱した女性”を撮る理由

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自分自身や、母という存在の謎を解く手がかりとして映画を観続けるなかで、役に立ったり、参考になった作品はあったのかを尋ねてみた。

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「手当たり次第に映画を観て、模索するような感覚でした。母の影響が強くあったからか、“取り乱した女性”が作品に登場すると、そのキャラクターのことばかり見て考えていました。映画『ヤンヤン 夏の思い出』(2000年)に出てくるお母さんは、家庭における母親の役割の窮屈さを隠さないキャラクターだったので、当時はとても影響を受けました」

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そして、その関心は映画を観ることに留まらず、自ら“取り乱した女性”を撮ることへと広がっていった。それが、19歳のときのこと。ずっとそういった女性が登場する映画を探して、好んで観てきた彼女にとってメガホンを手にして映画制作に着手することは、ごく自然な流れだったと語る。

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「今の時代は、女性監督が増えたことによりそういった規範から逸脱するような女性が多様に描かれるようになったと感じます。もともとそういう女性は存在していたけれど、男性監督視点で描かれていたものがほとんどだった。例えばよく語られるのは、映画『ベティ・ブルー』(1986年)のように、自我を剥き出しにした女性が、物語の中で最終的に殺されて死んでしまうというパターン。大学生のときにこの作品を観た時は、そういう女性がまるで罰を受けるかのように死んでいるという見方はしていませんでした。でも、言われてみれば、確かにそうした結末の作品は少なくないんですよね」

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ジャン=ジャック・ベネックス監督の『ベティ・ブルー』は、若い男女の激しい愛欲を描いた、くフランス映画の金字塔として知られる作品だ。

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「まず『最高だな』と思いました。ベティーの情緒不安定さや崩壊ぶりは、私にとっては見ていて辛いものではなくて、自然なことで、むしろ安らぐような気持ちにさえなりました。友達にも無理やり見せるほどとても好きな作品でしたね。のちに田嶋陽子さんの著書『ヒロインは、なぜ殺されるのか』を読んだりして、フェミニズムの視点から女性の描かれ方について新たに知って考えたりしました。なので今『ベティ・ブルー』を見たらどんな感想になるのかは分からないのですが、その変化もまた映画ならではの評価だと思います」

時の流れとともに価値観が変われば、人の考えも、撮られる映画も変わっていく。結局、山中さんは高校時代に抱えていた3つのペルソナや、母親との関係に折り合いをつけられたのだろうか。

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「私が母の身長を超えた小学校5年生のとき、とっ組みあいの喧嘩をして、「あ、なんかいけそうだ」と、身体的に母を上回った手応えがあったんです。それを機に、気持ちで母に対して引かなくなっていきました。それまでは、自分の感情が出せなくてかなり辛い時期がありましたが……。高校生になる頃には、自分のやりたいことを好きにできるようになっていました。最近は、世界に対する捉え方が変わってきていると感じています。かつての私自身のいわば被害者的視点ばかりだったのが、母の視点もストンとわかるようになってきた。どちらの感覚も自分の中に共在しているんです。だから、何かが変わっていくのかなと思っています。自分が大人になったのか、それとも気が済んだのか。母から受けた影響を切り離せずに行き詰まりを感じることよりも、だからこそ与えられたことにも気づけるようになりました。バラバラだったペルソナも、いまはうまく調和しているといいんですけれど」

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それには、“映画監督”という肩書きの存在感も大きいという。

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「自分の感性や思考を使う職業だからこそ、というか。もし私が、社会的な振る舞いだけを要請されるような立場だったら、まだ3つの人格に翻弄されたままだったかもしれない。『これで良かったのかな』と思うこともありますが、でも、その葛藤に向き合ったことが、結果的に映画制作の原動力になっているのだと思います」

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