try everything I feel like doing テキスタイル、ファッション、舞台衣装。“やってみないと”の精神で築いた3つの軸|須貝朗子
須貝朗子(すがい・さえこ)
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カルチャーへの
興味の種を育てた10代
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須貝さんの出身は群馬県桐生市。古くから織物の産地として知られるその町は、日本のアパレル産業を担うさまざまな工場や職人が集まっていることもあり、独自のカルチャーが根付く。
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「小さな町ですが、当時は良い古着屋やクラブがあり、自然な流れでファッションや音楽に興味を持つようになりました。面白い大人がたくさんいて、高校生の頃からヘアサロンに通っては、音楽や写真集、画集を教えてもらいました。ひと世代上の人たちがカルチャーを教えてくれる、そんな町でした。実家は織物業を営んでいて、家にいれば生地を織る機械の音が聞こえてくる。資料として雑誌やコレクションのルック集が置いてあり、ネットも普及してない環境なので、ファッションからカルチャー誌までとにかく雑誌を端から端まで読んでいました。そして布は一番身近なもの。進路は迷わず、美大のテキスタイルデザイン科を選びました」
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美大受験のための予備校で、講師から勧められて出合ったのが、ゆくゆくの活動の流れを決定づけることになるコンテンポラリーダンスの舞台。
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「〈インバル・ピント・カンパニー〉というイスラエルを拠点とするカンパニーの公演だったのですが、衝撃といえるほどの感銘を受けたんです。当時好きでよく観ていたゴダールの映画にどこか通じるものも感じ、その世界観に一気に引き込まれました。それから今にいたるまで、コンテンポラリーダンスを観に行くことは、私のライフワーク。ダンサーたちの優れた身体表現に加え、展開が読めない面白さもある。型が決まっているクラシックバレエとは違い、舞台セットも衣装もすべてコレオグラファーとスタッフのクリエーションに委ねられ、強い世界観と視覚的なトリックがあるところにも惹かれるんだと思います」
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オランダ、デン・ハーグの町で。ここに移り住んだのも、18歳の時に初めてコンテンポラリーダンスを観て受けた衝撃があってこそ。
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非日常の世界を
表現するために
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「入学した武蔵野美術大学は、1、2年生の間は自分を探せ、という感じで結構自由だったんです。3年間は、課外活動に勤しみ、パフォーマンスのための舞台衣装を作っていました。そうこうしているうちに、きちんと服作りを学びたくなって。バイト代を貯めて文化服装学院の夜間コースに通い、衣装制作の技術を学びました。大学の授業が終わったら全力疾走で文化に向かい、時には終わったら朝までクラブで遊び、帰宅して課題をやるというわけのわからない生活。やりたいことを全部やっていたからヘトヘトだったんですが、遊びで疲れを解消していました(笑)」
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めまぐるしい日々のなかでも、めぼしいコンテンポラリーダンスの公演があれば足を運んだ。舞台で目を奪われるのは、ダンサー達が身に着けている衣装。現場を見てみたいという思いから、インターンとしてダンスカンパニーで働いたこともあった。一方で、大学で学ぶテキスタイルデザインの面白さにも気づき、のめり込んでいく。さらには、課題で作った作品をモデルに着せて撮影しているうちに、スタイリストという職業にも興味を持ち始める。
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「卒業後の進路についてはとても悩みました。ずっとファッション写真や雑誌が好きだったので、テキスタイルと舞台衣装に関わる生活と並行して、どうしたらスタイリストになれるのか調べるようになっていました。そんななかで考えていたのが、まずは社会人として自立したいということ。金銭的な問題もありますし、弟が6年間大学に行くことが決まっていたのも頭の隅にあったんです。卒業制作に真剣に向き合うなかで、テキスタイルデザインも面白くなってきていたし、これを職業にしたら向いてるのかどうか確かめたい気持ちもありました。悩んだ末に選んだのは、テキスタイルデザイナーとして就職という道。卒業制作の講評では教授に『須貝は就職するみたいだけど、それでいいのか。表現することをやめていいのか』と聞かれました。その時はなんでそんなことをと思いましたが、迷いが見えたんでしょうね。でも3年やってみてダメだったらまた考えようと決め、入社したんです。小規模な会社だったので、1年目から小物のデザインを担当させてもらい、ベテランの先輩に囲まれて働けたことや、高い技術を持った工場や職人さんと仕事をさせてもらえたことは、本当に財産になりました。ただ、3年間布や小物をデザインしながら、端々で考えてしまったのが“日常的なものを作るのか、非日常なものを作るのか”ということ。私は結局、非日常を生み出すことに興味があるんだと気づき、ファッション写真に携われるスタイリストになりたいと改めて思ったんです。そんなタイミングで運良く、当時デザイン事務所で働いていた親友のつてで出会えたのが、師匠である椎名直子さんでした」
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「オランダの町では住む人の個性が表れる窓を眺めるのが楽しい」というのはスタイリストらしい視点。
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舞台の現場への憧れを胸に
オランダへの移住を決意
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椎名直子さんのもとでは、3年間のアシスタントを経験。第一線で活躍しながら留学に行ったこともある師匠の、自由で自立した姿勢から学ぶことも多かった。真摯に仕事に向き合う姿勢と確かなセンスで周りからの信頼を集め、独立すると、息つく間もなく仕事が舞い込んできた。
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「やりがいのある日々でした。仕事を頼んで頂けるのは嬉しかったし、少しでも記憶に残るものを作りたい、という気持ちがありました。ただ、独立3年目になると、忙しい毎日に追いついていくのが精一杯という状態に。スタイリストの仕事が大好きでしたが、向いていないのではないだろうかと疲れてしまった時があって。5年続けてその時にまた考えてみよう、と決めました」
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テキスタイルデザイナー、そしてスタイリストとして働きながら、どこかで持ち続けていたのが舞台衣装への興味。観続けていたコンテンポラリーダンスの舞台、衣装、音楽、ポージングのすべてがスタイリングのインスピレーション源となり、ダンサーをファッション撮影のモデルに起用することもあった。そこで出会ったダンサーからの繋がりで、次第にコンテンポラリーダンス公演の衣装デザインをする機会も増えていった。5年目という区切りを目前にした2019年に、世界で最も人気のあるコンテンポラリーダンスカンパニーのひとつであるオランダの〈ネザーランド・ダンス・シアター (NDT)〉の来日公演を観たことで、さらに思いが高まった。
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「自分も一度舞台衣装の世界に身を置いてみたいという思いが離れなくなって。その後に〈NDT〉のダンサーと撮影の仕事をする機会もあり、私もオランダに行って衣装の勉強をしようと考えるようになりました」
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新しいことに挑戦するのは勇気が必要。もしすでに好きな仕事を手にしていたならば、ほかのことに興味が湧いても挑戦しないまま終わる人のほうがきっと多い。けれど須貝さんは“やってみないとわからない”という気持ちに突き動かされる。
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「どうしても体感してみたいと思ってしまうんですよね。5年間スタイリストを頑張ったから、新しいことに挑戦してみてもいいと思えたんです。コロナ禍の2年を経てオランダ行きを決めてからは、働きたいダンスカンパニーに履歴書を送り続けました。でも、留学歴もなければ、ヨーロッパで働いた経験もないから、やはり返事は来なくて。ならばもう、行ってどうにかしようって。幸いオランダは、ビザが取りやすい国。フリーランスビザを取得して、2023年9月に移住しました」
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デン・ハーグで6月まで住んでいたアパートの部屋。仮暮らしなのでアムステルダムのギャラリー〈ENTER ENTER〉で購入した写真集の色校をポスターにして、自分色に部屋を飾っていた。
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コンテンポラリーダンスの
本場の熱量を体感
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“やってみないとわからない”精神は功を奏し、コンテンポラリーダンスの現場に入る機会を得た。
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「向こうで知り合ったダンサーの紹介で、オランダの第二の都市、デン・ハーグに拠点を置くダンスカンパニーで働くことができたんです。今年の1月から5月まで、31ヶ所31公演のツアーに衣装担当として同行していました。最初はボランディアと言われていたのですが、働き始めてすぐにプロとして認めてもらえたのか、ちゃんとお給料をもらえることになりました。衣装デザイナーのアシストとして製作の追い込みから参加し、ツアー中は主に衣装の手入れや管理を担当するドレッサーとして働きました。ツアーはまるでロードムービーのような日々。27歳のマネージャーが運転する車に乗って、私とダンサー達で移動して。すごく雰囲気のいいカンパニーで、どこからきたかもわからない私を同僚として受け入れ、意見に耳を傾けてくれて、心温まる場面がたくさんありました。特に印象深いのが、プルミエと呼ばれる、初日の公演。千秋楽が重要とされる日本との文化の違いを感じるところなのですが、向こうではプルミエが命。成功させるため、時に議論しながら、カンパニーの皆が一丸となって本番に向かう姿は忘れられません。スタッフである私も舞台に引っ張り上げてもらったことは、忘れられない経験になりました。ツアーの合間には、ヨーロッパ各地に観劇しに行くこともできました。オランダはベルギー、ドイツ、フランスと隣接していて、さまざまなカンパニーの最新作をすぐに観に行ける夢のような環境でもありました」
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Danstheater=dance theater。専用の劇場があるほどに、ダンスはオランダの人々の生活に文化に根付いている。
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次なる目標に向かい
鍛錬と挑戦を
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今の目標は、衣装デザイナーとして舞台に携わること。それを叶えるために、ツアーの終了をもってカンパニーを離れ、次なるステップへ向かうことに。この夏は、〈NDT〉の日本公演に衣装スタッフとして参加。スタートは高崎公演。地元・群馬で、憧れのカンパニーの衣装現地スタッフをひとりで任されたのは、感慨深いできごとだったと話す。一歩一歩、夢に近づいている。
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「ダンスの世界に入って数年、まだまだ先は長いと思っています。30代後半になって海外で挑戦するって、言葉にしたらきれいなのですが『もっと早くやっていれば』という後悔はすごくあります。若い頃は留学するには金銭的に難しいと諦めていたけれど、20代だったらワーホリや応募できる助成金も色々あったはずです。将来的には衣装デザインができるように、今は鍛錬する時期だと捉えています。コンテンポラリーダンスの衣装は、たとえば一見スーツのようでも、手に取ればサイドがメッシュになっていたり、一部がくり抜かれて伸縮性のある素材になっていたり、躍るための特殊な加工が施されていて日常着とは別物。作るのに特殊技術が必要です。その技術を学ぶために、たくさんの現場を見て経験を積みたい。夏の終わりからしばらくは、デルフトという街の衣装制作のアトリエで働く予定です。私は期限を決める癖があって。3年後には、自信を持って衣装デザイナーを名乗れるように努力したいです」
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ファッションとコンテンポラリーダンスの世界に身を置くのは大変なことに思えるが、このふたつの世界は、見方によっては遠い世界ではない。
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「〈ドリス ヴァン ノッテン〉はベルギーの〈ローザス〉というカンパニーの衣装デザインを手掛け、ドリスのコレクションムービーにはそこのダンサーを起用していました。私は衣装デザイナーをしながらスタイリストの仕事を続け、ドリスの例のように、ファッションとコンテンポラリーダンスの垣根を超えたことができたら理想的だと考えています。ファッションに関わるスタッフでコンテンポラリーダンスのファンは多いと感じるし、撮影がダンサーのセカンドジョブとして成り立ったら双方の表現にもプラスになると思う。オランダでは、コンテンポラリーダンスが文化に根付いていて、公演には老若男女がおしゃれをして集います。日本でももっと一般的になって、文化のひとつとして根付く日がきたら嬉しいですね」
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