optimistic solitude 楽天的な孤独|寿木けい
optimistic solitude 楽天的な孤独|寿木けい

optimistic solitude 楽天的な孤独|寿木けい

essay & photo kei suzuki
edit mamiya yasuko

2024.11.15

日常の景色を鋭い視点で描いた、滋味あふれる文章で人気を集めるエッセイストの寿木けいさん。元は編集者で会社員をしながら執筆業を始め、3年前には長く暮らした東京を離れ山梨に移住。そこでは古民家を改修した宿の主にもなった。5人姉妹の末っ子として生まれ、いつもひとりでいたことが生き方に大きく影響しているという。時に大きく舵を切りながら進むしなやかな人生、そして豊かな表現の背景にある孤独について。

寿木けい(すずき・けい)

エッセイスト・料理家。富山県生まれ。出版社で編集者として働きながら執筆活動をはじめる。著書『わたしのごちそう365』(河出書房新社)は現在12刷。ほかに『土を編む日々』(集英社)、『泣いてちゃごはんに遅れるよ』(幻冬舎)、『愛しい小酌』(大和書房)など多数。25年間の東京生活を経て2022年に山梨に移住し、紹介制の宿〈遠矢山房〉を開業。不定期で季節の会も行う。2025年2月に『泣いてちゃごはんに遅れるよ』(幻冬舎)文庫版が発売予定。初夏には山梨での新しい生活を綴った新刊が、その後も書き下ろしの上梓が控える。

official website https://www.keisuzuki.info/

<right>

エッセイを書くことは、群れからはみ出して観察することだと私は思っている。観察は外ではなく内に求め、自分の中に生まれた驚きを書く。それは、してやられた!と相手にひれ伏すことであり、しょっちゅう誰かとつながっていてはできないことだ。

<br>

ひれ伏す相手は人のこともあれば、自然のこともある。とくに、3年前に東京から山梨に引っ越し、人よりぶどうの木のほうが多い里山で暮らしはじめてからは、季節の移り変わりに驚かされ生かされてきた。

<br>

ふきのとうや竹の子の旬は短く、見逃せば次に会えるのは一年後だ。冬は薪を割らなければ部屋を暖められない。夏は草を刈らなければヘビだらけになってしまう。こうして自然を追いかけ手を動かしていたら、3つ歳をとった。

</right>

<left>

私は5人姉妹の5女として富山で生まれた。

<br>

へぇ珍しいねという当たり障りのない反応がほとんどだが、

「それって多産DVじゃないですか」

ある知人はこう言ってから、しまったという顔をした。

<br>

その新しい言葉の根っこには、子供をたくさん産みたい女なんているはずがないという現代の認識がある。産むことも育てることも命がけなのに、生き方を決める権利が暴力によって奪われる。現実にやっと言葉が追いついた衝撃的な表現だが、私には思い当たるふしがあった。

<br>

「望んだ子ではなかったけど、生まれてみたらすごくかわいかった」

<br>

母が私のことをこう話してくれたのは10年ほど前、長女が産まれた頃だった。私はもうそういう台詞に感傷的になる年齢ではなく、むしろすっきりした気分だった。自分を海苔巻きの端っこみたいな“はみ出しぶん”だと思ってきたことの答え合わせができたからだ。母の名誉のために書くと、尊敬と呼べるのは私には母だけである。

<br>

うっかり生を受けた存在は自由だ。家を継ぐ必要もなく、歳の離れた姉たちにはすでにそれぞれの世界があり、遊び相手になってくれることはない代わりに争いもなかった。母は忙しく働いていて、私はいつもひとりで、このひとりの寂しさの中に心が育つ大切な栄養があった。

<br>

十六歳の時には富山を出ることを決め、東京の大学に進んだ。たくさんアルバイトをしてさっさと就職し、ひょっこり結婚して子供をふたり生んだ。山梨に移ったあと、子供たちの父親とは2年前に別れた。

<br>

20代の頃は休暇のたびに外国をほっつき歩いていた。ひとりで行っちゃ危ないと言われる国も選んだ。ここで死んでしまったら誰にも発見されないなあと思いながら、そういう過ごし方こそ楽しくてしっくりきた。私にとっての旅は、死を小さく疑似体験することだったのだ。

<br>

そうしたいくつもの旅の何度めかに、父が死んだ。突然死だった。成田空港に戻った時にはすでに骨になっていたが、私は泣かなかった。

<br>

ただ、血の半分を父からもらっていることが怖かった。父に似ないように、しっかりするんだぞとずっと思ってきた。そうして生き抜いて幸せになった姿をいつか見せたかったのに、最期まで自分勝手だった。

</left>

<right>

いま、はじめて自分の家族を築いている実感がある。家族というのも少し違うような気もするが、ほかの名前が思いつかないから、私の子供たちと犬と呼ぶ。

<br>

築130年の古民家を改修し、宿と自宅を兼ねた場所を作った。見渡すかぎりぶどう畑が広がり、南に富士を望む美しい土地だ。

<br>

宿は紹介制で、しつらえから調理まですべて私が担当する。ほかに数か月に一度季節の会を開き、お客様を迎えている。それ以外の時間を執筆にあてる。田舎の四季はネタの宝庫だ。真剣に暮らすことがそのまま職業として磨かれていく。

<br>

東京のマミートラックからひょいっとはみ出して、里山のあぜ道を自分のペースで歩いているなんて5年前は想像できなかった。でも、一抜けしてみたらなんてことなかった。

<br>

それは私に入念な計画があったからではない。子育てを優先しながらペンと包丁で収入を得たいと願ってきたから、その生き方を後押ししてくれる情報や人につながりやすくなったのだ。なにより、どうしたって生活してみせるという楽天的な意地があり、それこそ母から受け継いだものだと思う。

</right>

<left>

 おまけで落ちてきた人生に、誤算か番狂わせか、人が集まるようになった。

<br>

私の本を読んで遠方から訪ねてくれる人がいる。大切な人を連れて泊まりにきてくれる人がいる。彼ら彼女らとちょっと泣ける話やむかつく話でゲラゲラ笑って、元気でまた会いましょうねと別れる。場所があるから叶ったことだ。

<br>

家族や故郷といったものと縁が薄かった私の中に、地に足をつけた確かな場が欲しいという渇きがあったのだ。友達とも仕事相手とも違う人たちとたまに声をかけ合いながら、私の子供たちと犬の人生を築いていけばいい。子育ての季節が過ぎ、またひとりに戻るまで。

<br>

エッセイは世界を変えはしない。私が生きている世界線をどうだ美しいだろうと示す、ひとりよがりな投げかけである。感動も怒りもひとりで書く。その孤独に耐えられるか。孤独まで愛せるか。それは自分を愛することであり、それと同じくらい、人の孤独を尊重していくことなのだと思う。

</left>