a story of my grandmother 大草原の小さな家と大きな大きな私の家|小林エリカ
小林エリカ(こばやし・えりか)
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冬には雪がうず高く降り積もる。
庭にはあたりで一番大きな杉の木。
茅葺きの家は大きくて、柱は子どもひとりで抱えきれないほど太かった。
彼女は家の裏庭で鶏を絞める。
首を切って一番に滴る鮮血は身体にいいから、茶碗にとって母の枕元へ、大切に運ぶ。
彼女の母は、身体が弱くて、年中妊娠していて、床に臥せがちだった。
田んぼにはドジョウが泳ぐ。
秋になると稲刈りを手伝った。
彼女は裁縫と、料理が得意。
キャベツの千切りコンテストで優勝したこともある。
汽車はまだ珍しかったから、握り飯を持って、汽車が走るところを見に行った。
やがて、その汽車に乗って、彼女がひとり東京へ出たのは、十六歳。
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私は、子どもの頃、よく祖母の家に預けられていて、眠る前には、その話を幾つも聞いた。
祖母が語る、雪深いその場所は、どこか遠い外国の話のように思えた。
そう、ちょうど祖母の家のテレビで観る『大草原の小さな家』みたいに。
夕方になると、祖母は必ずテレビをつけて、それを観ていた。
テレビの脇には、その原作本まで置かれていて、それが祖母の家にあるただ一冊の本だった。
金色の髪を三つ編みにした少女たちが大きな森の家に暮らす姿を、私は煎餅を齧りながら、祖母は編み物をやりながら、くいいるように見つめた。
祖母はけれどその間少しも手を休めない。
メリヤス編み、鹿の子編み。ケーブル、ダイヤモンド。
手元になんて一度も視線を落とさないのに、そこには完璧な模様ができあがっていた。
かつては真っ暗な映画館でニュース映画を観ながら編み物をやっていて、一本観終わる頃にはマフラーをしあげていたという。
祖母の手にはいつでも毛糸があって、それが時と共にずんずん編み上げられていた。
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彼女は十六歳で東京へ出て、はじめ銀座のデパートのお針子として働いた。
けれどお針子仲間に苛められ、すぐさま寮を逃げだした。
とはいえ彼女には行くところもなかったから、遠い親戚の紹介を頼りに、住み込みの家政婦として働くことになる。
東京の豪奢なお屋敷。それは茅葺きの家とは比べ物にならないほどの大きさだった。お嬢さんたちはアメリカ帰りで英語を喋った。何もかもが目新しかった。
お嬢さんたちはとにかくお洒落で、着物のかわりに洋服にハイヒールを履いていた。
デパートで洋服を買うときは、同じ型のものは違う色まで全部買い占める。
彼女は働き者で、よく気が利いたから、気に入られた。
そうして、ときどき不相応に豪奢なドレスのお裾分けにあずかった。
黒い縮緬地に小花がらの模様が入ったロングドレス。
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祖母が死んだ時、衣装缶いっぱいの毛糸と、編みかけの模様が、いくつもでてきた。私はそのうちのいくらかと、祖母が貰ったものの結局小さなクローゼットに押し込められたままだった、不相応に豪奢な黒い縮緬地のドレスを貰った。
私はずっと後に、そのドレスをくれたお嬢さんというのが、『大草原の小さな町』の翻訳者、鈴木哲子さんという人だったと知った。
つまり、祖母がいつもテレビを観ていたのもそのためで、その横に置いていたのもその人の本だったというわけだ。
けれど、おそらく祖母が、その本を読んだことは、一度もなかったのだと思う。
祖母は尋常小学校しか出ていなかったから、生涯、字がうまくかけなかったし、本もよく読めなかったから。
とはいえ晩年、祖母はツアー旅行で、アメリカへ、どこまでも大きなあの大草原へも出かけていって、実際にあの地を見ることになる。
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私はいま、作家になって本を書いている。
子どもの頃から、私は本が大好きだった。
ずっと作家になりたかったし、本を書くことは、憧れだった。
だから本に書かれていることこそが、どこまでも尊いと信じて疑わなかった。
けれど、書くことも、読むことさえままならなかった、そして、本に書かれることのない祖母の人生。それもまた、どこまでも尊いと、知ることが、作家としての私のはじまりになる。
いまなお、私が心底書きたいと願うのは、祖母の声、それから、祖母が残した編みかけの模様、そういうものたちのことかもしれない。
ところで、あのドレスは私もまだ着る機会がないままだが、いまなお私の小さなクローゼットに押し込められている。
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